収賄しない裁判官は日本の誇り
収賄しない裁判官は日本の誇り
弁護士 岡本 哲
2000年に施行された国家公務員倫理法(以下「倫理法」という。)は、その目的を「国家公務員が国民全体の奉仕者であってその職務は国民から負託された公務手あることにかんがみ、国家公務員の職務に係る倫理の保持に資するため必要な措置を課することにより、職務の執行の公正に対する国民の疑惑や不信をまねくような行為の防止を図り、もって公務に対する国民の信頼を確保すること」と定めている(同法1条)。裁判官はこの倫理法の対象外とされている(同法2条)。この立法の時点では行政官の倫理は問題としても裁判官の倫理はまったく問題となっていなかったということであろう。
川島武宣「ある法学者の軌跡」有斐閣・1978年におもしろい記事がある。
(川島教授が、ハワイでイリノイ大学S教授と議論した際のエピソードとして次の会話である)
S教授「日本では裁判官の何割くらいが事件の当事者から賄賂をとっているか」
川島教授「そういう事例はまずないと思う。ゼロに近い。戦後には簡裁判事で新聞に報道された例が一つあった。それ以外にわれわれに知られている事例はない。おそらくそれ以外にないと言っていいだろう。」
S教授「君は何というナショナリスティックなことを言うのか。それはおよそ学者の言うべきことばではせない。学者は自分の祖国のことであろうとなかろうと、客観的事実を言うべきだ。そういうことを言うなら、君は学者ではない。
(中略)
川島教授「まあ私の説明を聞きなさい。あなた方がそう思うのはも無理はないが、日本の裁判官にはこういう伝統があるのだ。私は裁判官とつき合ってわかるこれども、裁判官は、世間から批判されるくらい、世の中の一般の人々とつき合わない。裁判官は2年ごとに異動・転任して、地元の人とつき合わない。地元の有力者から招かれても公式の場面以外は宴席には出ない。裁判官は裁判官どうししかつき合わない。(中略)だから、裁判官が賄賂を取るということは、考えられないのだ。」
加藤新太郎判事は2004年の著書で、これについてコメントされて、「国民だれもが裁判官は賄賂を受け取ることはないと確信しており、したがって、当事者に、そもそも裁判官に賄賂を贈って訴訟を有利にしようという発想がまったくない」としている(加藤新太郎編「ゼミナール 裁判官論」2004年 47頁)。長年の信頼を強調する立場である。この意識が国会議員にも浸透しているのであるから、2000年段階での倫理では問題にならなかったのであろう。国会議員汚職事件がふつうに審理されてきたことの歴史のありがたみを感じる。
さて、弁護士がこれをみた場合、発言者の意図とかもついでにみてしまう。S教授がイリノイ大学というところに注目してしまう。アル・カポネの活躍したシカゴのある町であり、1958年に「アンタッチャブル」が放映されていて、行政官も司法官もさかんにギャングから賄賂をおくっていたというイメージがついてしまった州である。そこのところのトラウマに連結な司法官がいる日本というのはふれてしまっていたのではなかろうか。
なお、日本以外の国では先進国でも裁判官の収賄可能性は現実的なものとして弁護士は当然リスクテイキングするようである。アル・カホネの脱税裁判では裁判官ではなく陪審員の買収が現実の問題となっていた。
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コメント
これは、一般論としては正しいと思います。
しかし、単に個別の訴訟については、賄賂を渡すリスク、もらうリスクが極端に高いから収賄が起こらないに過ぎない気がします。
例えば、特許訴訟などでは専属部として分離していること、専門的なので弁護士も限られること、賠償額が巨額になりやすいことなどを考えれば、部分的にしかし極めて深刻な収賄のリスクがある気がします。
関係者が受ける利益が大きければ大きいほど、分野が専門的であればあるほど、より重大な収賄リスクが発生するように思えてなりません。
投稿: たろう | 2009年8月20日 (木) 05時14分
一般人同士の民事訴訟などでは、日本ではいまのところほとんどないと思います。
しかし行政訴訟あるいは国家を巻き込んだ組織的犯罪に関しては、検察を通して賄賂が渡るようになっています。検察からの賄賂ですから検挙される心配がないからです。そうやって検察の有利に運ぶよう、つまり有材を無罪にし、無罪を冤罪にする判決を導き出します。極悪組織が無罪となり、罪のない一般市民が死刑になります。
マスコミ・検察・カルト宗教、そして「裁判所」が一体となって真相をもみ消します。もちろんこのバックにあるのはユダヤ金融資本です。
投稿: | 2010年4月 2日 (金) 13時56分